オニール八菜、これまでとこれからの12年。 オニール八菜、これまでとこれからの12年。

オニール八菜、これまでとこれからの12年。

パリ・オペラ座バレエ団入団から12年、42歳のアデューまで残り12年。エトワールの夢を叶えた彼女は、30歳の“大人”として、これから踏み出す一歩に何を思うのでしょうか。これまでの彼女の歩み、そしてこれからの展望について伺いました。彼女を幼い頃から見て来た師、岸辺光代先生のメッセージと合わせてお届けします。

chapter_01. バレエとの出会い

「大きくなったらなんになるの?」と訊かれて。

「大きくなったらなんになるの?」と訊かれて。

私は幼い頃から、とにかく踊るのが大好きな子どもだったようです。祖父が英語の勉強用にと見せてくれた子供向けテレビ番組の中に、チュチュを着た女の子がバレエを踊るシーンがあったのですが、私はそのシーンだけを繰り返し見て、ずっとまねしていたのを今も覚えています。「大きくなったら何になるの?」と母に訊かれて、私はレヴェランスをしたそうです。母はそんな様子を見て、私が3歳の時、当時水泳を習っていたスポーツクラブのバレエクラスに連れて行ってくれ、4歳からは岸辺光代先生のもとで学び始めました。

岸辺先生は厳しい先生でした。お稽古場でお友達とゲラゲラ笑ったり、レッスン中にぼーっとしたりして、私はよく怒られていました。でも、バレエは本当に楽しくて。レッスンに行きたくないと思ったことはありません。発表会にも、楽しい思い出がたくさんあります。メイクをしてもらって、お友達とワクワクしながら出番を待つ時間、ライトのあたたかさ……。舞台という特別な場に立つ、あの感じが大好きでした。その感覚は私にとって、今も大切なもの。だからこそ、バレエを続けてきたのかもしれません。

8歳の時、父の仕事の都合でニュージーランドに移住することになりましたが、バレエをやめるつもりは全然なくて、母が見つけてきてくれたマウント・イーデン・バレエアカデミーに入りました。その後も、日本で12月~1月にあたる夏休みには東京に戻ってきて、地元の小・中学校と岸辺先生のところへ通っていました。日本とニュージーランドを行き来する生活は、お友達に会えるのがうれしくて、苦になりませんでしたね。

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「このまま何時間でも踊っていられる!」

「このまま何時間でも踊っていられる!」

小さい頃はよく、友達のお姉さんのトゥシューズをこっそり借り、中にティッシュペーパーを詰めてバレリーナごっこをしていました。お友達と跳ねたり、回ったり。「絶対やってはいけません!」と先生に怒られる遊びです。すごい勢いで足の皮がむけ、豆ができて痛かったけれど、とにかくトゥシューズで踊るのが楽しかったんですね。初めてトゥシューズを履いたのは10歳の時。ニュージーランドでRADグレード5の試験を終えてすぐに履きました。やはり少し痛かったけれど、大人になった気がしました。ピルエットも、ピケ・トゥールも、できる動きはすべてやりました。興奮のあまり、このまま何時間でも踊っていられるような気がしていました。その年の冬、日本でのレッスンでは、岸辺先生に「トゥシューズでダブルを回れるまで、ニュージーランドに帰らせないからね!」と言われて、必死で練習しました。まだ身体が軽い時期ですから、回転は怖くなかったです。トゥですっと立つ感覚が心地よくて、夢中になりました。私の基礎は、岸辺先生につくっていただいたと思っています。

<コラム>おっちょこちょいな少女が、大輪の花のようなダンサーへ。

幼い頃の八菜は小柄できゃしゃな女の子でした。発表会の練習でも、ピルエットを逆に回ったり、ハケる方向を間違えたり。でも、本当に努力家でしたね。中学生の頃、急に10㎝以上背が伸びたのですが、彼女は心身ともに安定感が増し、見違えるように大人っぽくなっていました。尋ねてみると、ニュージーランドで、当時はまだあまり普及していなかったピラティスを始めたとのこと。彼女の成功は、素直で努力を惜しまない資質と、ご家族のきめ細かなサポートによるものだとつくづく思います。
(岸辺光代)

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バレエとの出会い バレエとの出会い

chapter_02. パリ・オペラ座への憧れと
ローザンヌ

元エトワールがくれた「あなたらしく」という言葉。

元エトワールがくれた「あなたらしく」という言葉。

パリ・オペラ座は物心ついた頃からずっとずっと、憧れのバレエ団ですね。小さい頃、パリ・オペラ座バレエ学校の日本公演にも連れて行ってもらいました。演目はくわしく覚えていないのですが、「なんてすてき!」という夢のような感覚だけは残っています。映像でよく観ていたのは、「ヌレエフ世代」のダンサーたちです。シルヴィ・ギエム、イザベル・ゲラン、モニク・ルディエール……。いつかはパリ・オペラ座で踊る、という夢はいつも私の中にありました。13歳か14歳の頃、パリ・オペラ座バレエ学校のビデオオーディションに応募したのですが、なんの反応もありませんでした。その直後、2007年のユース・アメリカ・グランプリでオーストラリア・バレエ学校のスカラシップをいただき、パリ・オペラ座バレエ学校への夢は捨てきれなかったものの入学を決めました。バレエ学校に入り、初めての一人暮らしでホームシックにはなったけれど、すべての時間をバレエ中心にすることができたので生活は充実していました。

ローザンヌへの挑戦は、最高に楽しかった思い出のひとつです。「毎年TVで見ていたローザンヌに、本当に自分がいるんだ!」と思うだけでわくわくしました。クラシック・ヴァリエーションは『ラ・バヤデール』より「影の王国」。ヴァリエーションのコーチングは、憧れのパリ・オペラ座の元エトワール、モニク・ルディエールでした。「あなたらしく踊って」というアドバイスは、今も耳に残っています。コンテンポラリーはノイマイヤーの「プレリュード」。大きな黒いチュチュを着て、チェロのメロディと遊ぶように踊りました。世界中から集まったダンサーたちとも仲良くなれて、本当に特別な1週間でしたね。クラシック・ヴァリエーションの本戦では、トゥシューズのリボンがほどけてしまって。舞台袖に引っ込んでからもう一度出て踊りましたが、あまり緊張もしませんでした。あの舞台で踊れることがうれしすぎて、緊張する暇がなかったのかもしれません。

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夢をあきらめて帰国する途中で受けた、シーズン契約の電話。

2011年、オーストラリア・バレエ学校の最終学年在学中に、私はオペラ座入団試験(コンクール)を受けに、パリへ向かいました。当時の入団オーディションは、白のレオタードとピンクタイツだけで踊ることになっていました。バー・レッスン、センター・レッスンに始まり、そこで落とされる人もいて、最後まで行けたら課題のヴァリエーションを踊ります。私が踊ったのは「祭りの夜」という、音楽的でとてもオペラ座らしいヴァリエーションでした。結果は、パリ・オペラ座バレエ学校出身のダンサーが1位で、私は4位。「ああ、ダメか……」とがっくりして、翌日には帰国の飛行機に乗ったのですが、乗り継ぎのシンガポールで携帯電話のスイッチを入れたら、ちょうどそこに、当時副監督だった元エトワールのローラン・イレールから、シーズン契約を知らせる電話が入ったんです! ものすごくびっくりして、信じられない気持ちでした。私は、オペラ座のシステムがぜんぜんわかっていなかったんですね。もちろんその場で「Yes!」と答え、帰国してすぐ、パリで暮らす準備を始めました。

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「どうしても、ここにいたい。最後の最後まで、あきらめない」。

「どうしても、ここにいたい。最後の最後まで、あきらめない」。

憧れのパリでの生活は、とても厳しいものでした。私のようなシーズン契約のダンサーはもちろん、正規団員になっても、若手に役がつくことはほとんどありません。まずはアンダースタディ(代役)としてリハーサルに参加し、出演者全員の振りと踊る場所を覚えなくてはなりません。公演当日の午後4時にキャスティングシートが出るのですが、そこに時々名前が出ることがあります。コールド(群舞)の誰かがけがをした時、ぶっつけ本番でその位置に入って踊るのです。怖いけれど踊るしかないので。毎回必死で自習しました。

オーストラリアで学んできたロシア・ワガノワ派のスタイルと、パリ・オペラ座のスタイルの違いにも苦労しましたね。ワガノワに比べて、オペラ座の動きはナチュラルでエレガント。音楽のアクセントの取り方やつま先の見せ方、上体や手の使い方に何ともいえないニュアンスがあって、全身のポスチャー(姿勢)が微妙に違うのです。オペラ座のスタイルを早く自分のものにしたくて、毎日休まずレッスンし、個人レッスンもお願いしていました。先生や他のダンサーたちをじっくり見て、まねをしながら少しずつ。私、まねはわりと上手なんです(笑)。最初はフランス語がまったくできなかったので、他のダンサーと距離を感じてホームシックになりました。すぐ舞台に立てないことは覚悟していたけれど、「私は一生こんな感じなのかな?」と思ったり、「よそに行けば絶対ソリストになれるよ」と友達に言われて、気持ちが揺れることもありました。契約ダンサーになって半年目の冬、「もうパリはいい、絶対ニュージーランドに帰る!」と母に電話したことがあります。

2回目の入団オーディションは、自信があったものの2位で、またしても正式団員の契約はもらえませんでした。それでも「どうしてもここにいたい!」と思いました。パリ・オペラ座で踊るという夢を、最後の最後まであきらめない。自分にできることは120%やる、という意思は強かったです。「これで最後」のつもりで臨んだ3度目の入団オーディションは、いちばんプレッシャーを感じました。2年間プロとして踊ってきたのに、バレエ学校の生徒のように白いレオタードで審査されるのもきつかったです。でも、仲間たちがスタジオの外で応援してくれたのはすごくうれしかったですね。このオーディションで、私はようやくパリ・オペラ座の正規団員となることができました。

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パリ・オペラ座への憧れとローザンヌ パリ・オペラ座への憧れとローザンヌ

chapter_03. ヴァルナ国際バレエコンクール、『白鳥』主役デビューとブノワ賞

群舞からオデットまですべて踊った、思い出深い初めての「白鳥」。

群舞からオデットまですべて踊った、思い出深い初めての「白鳥」。

2014年、コリフェの時に、同じ年に入団したジェレミー(ルー・ケール)に誘われてヴァルナ国際バレエコンクールに参加しました。コリフェだとパ・ド・ドゥを踊るチャンスがないので、コンクールで経験してみたかったのです。ヴァルナは黒海に面したリゾート地で、コンクールは7月、野外劇場で行われます。クラシックとコンテンポラリー、合わせて5つのパ・ド・ドゥを踊るのですが、日中は暑すぎるため、リハーサルは夜中から、コンクールが終わった後の舞台で始まります。舞台にはリノリウムもなく、食べ物も口に合わなくて大変でしたが「この1週間のコンクールを踊り切れたら、この後の人生、もう何でもできる!」という気持ちに(笑)。私は銀メダル、ジェレミーは銅メダルを獲得しました。

2015年4月、スジェに昇進したばかりの私は、『白鳥の湖』で初めてのソリスト役としてパ・ド・トロワを踊ることになっていました。そのリハーサル期間、バー・レッスンの最中に突然芸術監督のミルピエがやってきて、英語で「あと3週間でオデットを踊ることになったから」と教えてくれたのです。びっくりしすぎて、その後のレッスンは集中できませんでした。憧れの『白鳥』で主役デビューできるなんて夢のようでした。オデット・オディールを踊るために、最初に教わったのは「役に入り込み、物語の一部になる」こと。そのシーズンは、白鳥のコールドから大きい白鳥、ワルツ、マズルカなど、群舞から主役まで全部踊りました。いつもコールドの立場で見ていた主役を、自分が踊るのは不思議な気持ちでした。主役を踊り終えた瞬間、「私はこのためにバレエをやってきたんだ」と感じました。振付家のピエール・ラコットが、舞台袖まで来てほめてくださったのを覚えています。

それから数日後、ラコットから「君は私がイメージしていたヒロインだ。『パキータ』に出てほしい」と電話が。『パキータ』の本番までは2週間半でしたが、無我夢中で踊りました。翌年、この『パキータ』でブノワ賞にノミネートされたのですが、私は候補になっただけでうれしくて、受賞式の会場で名前を呼ばれた時は何かの間違いだと思いました。そこには世界で活躍するプリンシパルダンサーがたくさんいて、私はただのスジェでしたから。2016年1月には、エトワールに次ぐ階級、プルミエール・ダンスーズに昇格。そんなに早く上がれるとは思っていませんでした。このまま勢いに乗って、エトワールになれるかもしれない! そのためにはどんな努力も惜しまないと思いました。でも、それからの7年はとても長かったです。

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ヴァルナ国際バレエコンクール、『白鳥』主役デビューとブノワ賞 ヴァルナ国際バレエコンクール、『白鳥』主役デビューとブノワ賞
© Ann Ray / Opéra national de Paris

chapter_04. エトワールまでの道のり

リハーサルは、夢の時間。一人の女性としてのミルタを踊る。

リハーサルは、夢の時間。一人の女性としてのミルタを踊る。
© Agathe Poupeney / Opéra national de Paris

私が心から信頼するフロランス・クレール先生には、スジェ昇格試験の時、初めてコーチしてもらいました。フロランス先生はいつも、夢のような空気をつくってくださいます。先生とのリハーサルは、とてもクリエイティブで、神聖な空間。踊る「気持ち」がまず生まれて、そこから踊りが生まれてくる。先生はいつも、私にぴったりくる踊り方を、ゼロから一緒に探してくださいます。だから、どんなに疲れていても、最初の5分が過ぎると何時間でもスタジオにいられるくらい集中できます。プルミエール・ダンスーズになってから、望む役を踊れない時期が続きました。それでも先生は「落ち込んでいる暇はないよ!」と、いつもそばで支えてくださいました。エトワールは「目標!」と思っていたけれど、自分で決められることじゃない。自分は今、ソリストとしてたくさんの作品を踊ることができているのだから、その一つひとつを、120%の努力で磨いていこう! と思うようになりました。フロランス先生に教わったのは「余分な力を抜く」ことの大切さです。いらない力みは全部なくすと、子供っぽさがなくなって、大人の踊りになるんです。それが、エレガンスにもつながる。「がんばり」が見える踊りって、エレガントじゃないですよね。

2020年の日本公演で踊った『ジゼル』のミルタは、少し大人の踊りに近づけたかな? と手ごたえを感じた、大好きな役です。先生とたくさんリハーサルをして、役を深めていきました。ミルタは、ジゼルと同じように、恋人に裏切られて死んだ女性です。芯に激しい怒りと悲しみがあるけれど、私は美しい人だと思っています。女王として、他の精霊たちを守るために強いパワーを発している。怖いけれど、決して邪悪ではない。本当は繊細で傷つきやすい女性だと思うんです。

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踊りをゼロから見直して見つけた「自分らしさ」の意味。

踊りをゼロから見直して見つけた「自分らしさ」の意味。

コロナで舞台に立てない間、祖母や岸辺先生がよく言っていた「我慢」という言葉を思い出しながら、フロランス先生と一緒に、自分の踊りをゼロから見直しました。バー・レッスンの基礎の基礎から。今までつくりあげてきた身体がリチャージされ、立ち方も、動き方も、踊りに対する考え方まで変わった と思います。「余分な力を抜く」ことを徹底して、身体の芯は極限まで細く保ち、最も自然に立てるゼロ地点を探すこと。そこを起点に踊ること。その作業を通して、私はやっと本当に「大人」のダンサーになれたかなと思います。プルミエール・ダンスーズになってから、主役を踊れない時期が長く続いたので「何がいけないんだろう」と反省し、いろいろな人のアドバイスを聞き、あらゆることを試してみました。その結果、自分でもどう踊りたいかわからなくなってしまう時がありました。でも、踊りをゼロから見直したら、何かストン、と自分に集中できるように。誰かに振り回されず、どう踊りたいか、自分で決められるようになりました。「自分らしく」踊ることの本当の意味が、やっとわかった気がします。

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家族は、いちばんのサポーター。

家族は、いちばんのサポーター。

私は悲しい時はひたすらしょんぼりするのですが、1時間もするとそれに飽きてしまって、自然と「はい、次!」という気持ちになります。切り替えが早いんですね(笑)。それでいて、何があっても夢は絶対にあきらめない、負けず嫌いの面があります。そこは、ラグビーの選手だった父に似たのかもしれません。でも、私は誰かに勝とうとか、一番になろうと思ったことはないんです。大事なのは「自分対自分」の勝負。イメージ通りの踊りができなかった時は、とてもくやしいですね。もっと自分の理想に近づきたい。そう思うほどもっともっと踊りたくなって、踊りの「食いしん坊」みたいになっていきます。

父は公演前には必ず「Preparation Concentration Action(準備、集中、実行)」というショートメールをくれます。バレエとスポーツには共通点が多く、父の応援はいつもうれしいです。でも、あんまり「集中!」「頑張れ!」と言われるので、たまに「バレエはラグビーじゃないから!」と言い返すこともありますね(笑)。母は幼い頃から、コンクールや大切な舞台の時は必ずそばにいて、衣装のことから体調管理まで、リミットなしのポジティブさでサポートしてくれました。母の支えなくして、今の私はないと思います。楽屋にいても、家族のものがそばにあるとホッとします。亡き祖母が使っていたマグカップは、メイクブラシ入れに。祖母と母が編みついでくれたカラフルなレッグウォーマーは、元気が出ないときに身につけます。家族は、私にとっていちばんのサポーターです。

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エトワールまでの道のり エトワールまでの道のり

chapter_05. 夢のエトワール昇進

「名前を呼ばれた瞬間、背骨にドスン!と衝撃が走りました」。

「名前を呼ばれた瞬間、背骨にドスン!と衝撃が走りました」。
© Agathe Poupeney / Opéra national de Paris

エトワール昇進は、本当にサプライズでした。2023年3月、「バランシン・プロ」で「バレエ・インペリアル」をマルク(・モロー)と踊った後のことです。カーテンコールの最後、マルクの手を取った時、舞台袖にジョゼ(・マルティネス)とネーフ総裁がいるのが見えたんです。あれ? と思った瞬間、頭の中が真っ白に。名前を呼ばれた時は、身体の芯から、骨が震えるような衝撃が走りました。エトワールになる瞬間のことは、それまで頭の中で何度もシミュレーションしていたのですが、しばらくは実感がわかなくて「これは夢じゃないかな?」と思っていました。マルクと一緒に昇進できたことは本当にうれしい、スペシャルな経験でした。この7年は長かったけれど、ダンサーとして成熟するために必要な年月だったと思います。

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オデットは、とても繊細(フラジャイル)な生き物。

オデットは、とても繊細(フラジャイル)な生き物。

エトワールになって初めての、日本での全幕公演『白鳥の湖』。今まさにリハーサルの真最中です。王子役は、ジェルマン・ルーヴェ。彼と踊るのは、いつも本当にすてきな体験ですね。今回は、マーゴ・フォンティーンとヌレエフの『白鳥』から、たくさんのインスピレーションを受けています。二人の白鳥は特別で、本当に美しい。50 年以上も昔の映像なのに、まったく古さを感じません。ステップの一つひとつに意味があり、まるで映画のようなんです。フロランス先生はヌレエフと踊った元エトワールですから、彼が振りに込めた意図をていねいに伝えてくださる。白鳥のはばたく動きは大変なのですが、私にとって無理がない、最もナチュラルな動きを先生と一緒に探しています。腕が本当に白鳥の翼になってしまったかのように、自然に踊れたら。オデットは、美しくエレガントで、とてもフラジャイル(繊細)な生き物です。望まない白鳥の姿にされて、どこへも行くことができない。一人ぼっちで、深い悲しみの中にいます。2幕で王子さまと出会って大好きになるけれど、彼をどこまで信じていいのかわからない。

オデットは、とても繊細(フラジャイル)な生き物。

オディールのほうは美しいけれど「意地悪」。周囲の人を馬鹿にし、あざ笑っています。3幕のオディールと王子とのパ・ド・ドゥは、ヌレエフ版では悪魔ロットバルトとのパ・ド・トロワになっていて、ロットバルトの魔力に操られながら王子を誘惑します。これでは王子さま、絶対に勝てないですね(笑)。ヌレエフ版『白鳥』のいちばんの見どころは、4幕かもしれません。オデットは王子が大好きだけれど、もはや絶対一緒にいられないとわかっている。でも、どうしても王子さまを救いたいから、自分のすべてを差し出してしまうんです。オデットの悲しみや絶望感がわかるようになったのは、やはり私が大人になったからかもしれません。

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エトワールとしての12年へ。憧れをかたちするために。

憧れをかたちにするために大切なことは、まず「大好き」という気持ち。壁にぶつかった時も、自分がなぜ踊っているのか、踊る楽しさ、うれしさを忘れないことがいちばん。そしてたくさんの努力が必要です。「大好き」な気持ちを胸に、自分にできることを120%やれば、必ずその先が見えてくると思うんです。パリ・オペラ座に入って、もうすぐ12年になります。アデュー公演まであと約12年。踊りたいものはたくさんあるけれど、とにかく一つひとつの作品や舞台を楽しみ、私にしか踊れないオリジナルなものになるよう、磨いていきたいと思います。オペラ座で踊ってきた過去の名バレリーナのように、テクニックだけでなく、「個の強さ」を求めたい。所作の一つひとつに意味を持たせ、内側からパワーを引き出して、お客様に伝えたい。私が大切にしていることを、踊りから感じ取っていただけたら。そして、「あの日、オニール八菜の舞台を観て幸せになったよ」とお客様に言っていただけるアーティストになりたいです。

<コラム>「我慢」は自分を磨くこと。

お祖母様が彼女に伝えたという「我慢」の意味は、受け身で耐え忍ぶことではなく、「自分を磨くこと」だと思います。八菜は逆境に置かれても、決して人を憎んだりうらやんだりせず、素直に心と身体を磨き続けました。きっと彼女はこれからも変わらず、自分を磨き続けるでしょう。そして、大人の女性役の似合う、エレガントなエトワールとして活躍し続けるに違いありません。
(岸辺光代)

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夢のエトワール昇進 夢のエトワール昇進

Special Event

in Chacott DAIKANYAMA

「オニール八菜、これまでとこれからの12年」
特別展

これまでの彼女の歩み、そしてこれからの展望を幼少期からの思い出の品と共に展示いたします。

2024.02.02 Fri - 02.25 Sun

Chacott DAIKANYAMA 4F SALON Coteau

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